終活全般

辞世の句|乱世に生きた細川ガラシャ

大切な人とのコミュニケーション、取れていますか?

自分にもしものことがあったら?

大切な人にもしものことがあったら?

今回は少し違った視点で、戦国時代の人物に焦点を当ててみたいと思います。

辞世の句

戦国時代に辞世の句を詠んだのは武将だけではありません。

ー散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれー

細川ガラシャの辞世の句です。

人であれ花であれ、散るその時を心得るからこそ美しい、花には花の、人には人の価値があるというような意味です。

細川ガラシャの誕生

細川ガラシャは明智光秀の三女として生を受けました。

15歳の時、父の主君織田信長の勧めで、室町幕府13代将軍足利義輝に仕えた細川藤孝の嫡男、細川忠興の元へ嫁ぐことになります。

二人は美男美女で大変夫婦仲が良く、5人の子供にも恵まれ幸せな結婚生活でしたが、本能寺の変が起き、父親である明智光秀も討たれ、「逆臣の娘」として幽閉されることになります。

そうした背景の中、キリスト教の洗礼を受け、細川ガラシャとなったのです。

当時、キリスト教を信仰することは禁じられていましたから、最初ガラシャは忠興にもキリシタンとなったことを隠していました。

しかし、洗礼を受けた後、ガラシャは忠興に改宗したことを伝えます。

これに激怒した忠興と不仲になったガラシャでしたが、信仰はより一層深まっていきました。

ガラシャの生涯

天下人、豊臣秀吉の死により、1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが勃発、事実上西軍を率いていた石田三成は徳川方の武将の妻らを人質に取ろうとします。

忠興も徳川方に与していたため、ガラシャもその標的となりました。

石田三成は使者を送り、ガラシャを人質にしようとしますが拒否されます。

翌日石田三成は屋敷の周りを取り囲み、実力行使に出るのです。

それを知ったガラシャは、家臣に槍で胸を突かせその生涯を終えます。

キリスト教では自死が認められていないため、自刃しなかったのです。

家臣達も後に続き、次々と自害し果てました。

享年37歳。

その死を知った忠興は大変悲しみ、ガラシャのキリスト教信仰に猛反対していたにもかかわらず、教会葬に参列したとされています。

その愛ゆえに、深い悲しみに暮れた忠興と息子達の間に亀裂が走ることになっていきます。

それが良いか悪いかはともかくとして、そうなってしまうほど忠興はガラシャを愛していたのでしょうね。

最後に

大切な人の死、そこに直面した時思うことは何でしょうか。

細川忠興のように、少しでも大切な人の心に寄り添おうと考えるのではないでしょうか。

別れに直面した時、故人の希望に沿うため、普段から話し合いをしておくことが大切ですね。

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